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三沢光晴最後の一日「6月13日を忘れない」齋藤彰俊、高山善廣らが振り返る

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三沢光晴最後の一日「6月13日を忘れない」を綴る:前編

2015年6月13日は、故・三沢光晴さんの七回忌にあたります。

それに合わせて、週刊プロレスでは、三沢光晴追悼企画、 6月13日を忘れないの連載が始まりました。

この企画では、生前の三沢さんに関係の深い選手、関係者に、当時の状況、現在の心境を聞きます。

総勢11人。

それぞれ、三沢さんへの思いが、ひしひしと感じる内容となっています。

1人ずつ紹介していきましょう。

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齋藤彰俊(第1、2、3回)

故・三沢光晴さん七回忌「6月13日を忘れない」:週刊プロレス1777号

最初はプロレスリング・ノアの齋藤彰俊選手です。

故意ではなかったにせよ、直接放った技によってなんらかのアクシデントが起きた以上、齋藤選手にはとても重いテーマです。

しかしながら、決して避けては通ることができない事件の心境を語っていただいた齋藤選手の勇気を称えます。

まず、三沢選手最後の試合となったカードが決定する経緯、当時のNOAHが置かれた状況から語ります。

何ら変わることのない試合前

この日組まれたカードは、齋藤選手&バイソン選手vs三沢さん&潮崎選手のGHCタイトルマッチでした。

既にNOAH内で確固たる地位を築いていた齋藤選手&バイソン選手組に対し、三沢さん&潮崎選手はこれからのチーム。

必然的に、王者組は壁という役割を求められます。

齋藤選手は試合が組まれた意図を理解しつつ、個人としては簡単にいかせないという思いで試合に臨みました。

前日は、大阪のホテルに泊まり、朝に試合会場である広島に向かいました。

この時点はまったくいつもと変わっておりません。

おそらく、日常過ぎるレスラーの移動のように思います。

そりゃそうですよね。事件が起こるなんて、この時点では誰も想像さえもしていなかったのですから。

何ら変わることのない試合序盤

試合は、キャリアの浅い潮崎選手がローンバトルを強いられました。

三沢選手は時折激を飛ばしながらも潮崎選手をサポート。

途中、三沢選手がボディープレスを踏み外すこともありましたが、至って平常どおりに試合は進みました。

アクシデントの起きた齋藤選手のバックドロップにしても、いつもと何ら変わらない通常の技でした。

ただ一つ違ったのは、技を受けた三沢選手がいつまで経っても起き上がってこないことだけでした。

齋藤選手は、起き上がりにラリアットを狙って待ち構えていましたが、起き上がる気配のない三沢選手に不安を感じ始めます。

徐々に何かが起こったことを察知します。

すぐに、レフェリーが試合を止めて、トレーナーや選手達を呼び寄せました。

しばらくすると、救急隊が駆けつけてきて、三沢選手を運び出します。

この時点で、三沢選手の身体に異常事態が起こったことは齋藤選手のみならず、その場にいた全員が察知していました。

齋藤彰俊選手の覚悟

ここから先は、齋藤選手の懺悔が続きます。

試合後、齋藤選手は病院に行くも、誰と、どのように行ったかの覚えておりません。

ただ、断片的に病院に行ったという記憶が残っているのみです。

集中治療室の前でひたすら祈り、三沢さんの回復を祈りますが、祈りは通じず、三沢選手はリングに散りました。

報告を受けた齋藤選手は、その時のことを、現実は入ってくるが、整理ができない心境だったと答えています。

三沢さんに、そんなことがあってはならないということ気持ちが、現実を受け止めることを拒否していたのです。

朝になり、齋藤選手はホテルを出ました。

やがて河原にたどり着き、そこで齋藤選手は全てを受け入れることを決意します。

それは自分のことだけではありません。ファンの方の思いも全て、正面から受け入れる覚悟を決めたのです。

一旦ホテルに着いた後、選手達の再び病院に戻り、変わり果てた三沢さんと対面を果たしました。

自分は涙を流す資格なんてないんです。泣いたり、悲しんだりするのはご遺族、関係者、ファンの方たちなんです。

強烈な罪悪感に悩まされる齋藤選手の心境が痛いほど伝わってきます。

何があろうと、シリーズは続きます

次の日は、GHCタッグ王者の撮影会が企画されていました。

もちろん、昨日の試合で防衛を果たした齋藤選手&バイソン選手との撮影会です。

前日に防衛したGHCタッグ王者の責任として、齋藤選手はファンとの撮影会に出席します。

もし何ごともなかったら。ファンと一緒に撮ってたのは三沢社長たちなのかなと思うと、それはそれで感情が出てきてしまいますよね。果たして自分がベルトを持って撮影していいのかなって。

全てのファンが昨日の事故を知っている中、それでも決められたスケジュールを消化する齋藤選手のプロ意識に頭が下がります。

その日の試合は、三沢選手の遺影がリングサイドに置かれて行なわれました。

試合後、齋藤選手は三沢選手の遺影に向かって土下座しました。

プロレスラー齋藤彰俊ではなく、いち個人齋藤彰俊に戻った瞬間です。

観客の前でだろうと関係ありません。

頭で考えてとった行動ではないからです。

その後も予定通りシリーズをまわって試合をした齋藤選手は自問自答に悩みます。

自分が試合をしていいのだろうか?

しばらくしてから、齋藤選手は三沢さんが生前に書いた手紙を受け取ります。

予め三沢さんは試合中に亡くなったとき、対戦相手に伝えてほしいという内容の手紙を書いていたのです。

詳細は掲載されていませんが、齋藤選手が出した答えとほとんど変わりがなかったと述べられています。

きっと、齋藤選手はこの手紙に救われたことでしょう。

こういった事故で当事者を慰められるのは、もう一人の当事者のみのように思います。

三沢選手が、常に命を落とすかもしれない覚悟でリングに上がり続けていたこと、そして、対戦相手を気遣う気持ちが表現されています。

この痛ましい事故により、プロレス界、そして齋藤選手の歴史が代わりました。

あれから6年経った現在も齋藤選手はリングに上がり続けています。

それも、事故のあった緑のマットに変わらず立ち続けます。

事故のことは決して風化されることはありませんが、齋藤選手は今日もリングに立ち続けます。

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西永秀一レフェリー(第4、5回)

プロレスの試合でリングに上がるのは選手だけではありません。レフェリーだってその一人。

選手がクローズアップされることが多いですが、西永レフェリーも事故当日、そして翌日もリングに上がり続けました。

そういう時(アクシデントが起こったとき)は、ボク、いつも「動けるか?」って聞くんです。そしたら「ダメだ」って聞こえたんですよ。それで「止めるぞ」と聞いたら、今度は「止めろ」と聞こえたんです。

医師からは「あり得ない」と否定はされましたが、故三沢光晴さんと最後に会話したのは西永レフェリーと言われています。

医学的にはあり得ないかもしれませんが、受け答えが成立したのならば、そこに会話はなされたのだと思います。

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高山善廣(第6回)

次は、当時第39代三冠ヘビー級王者としてNOAHのマットに参戦していた”プロレス界の帝王”高山善廣選手です。

三冠ヘビーのベルトを小橋建太に見せ付ける

当時、オレは三冠王者だったんだよね。あの日、オレがベルトを持っていったの?

翌日の博多大会で小橋選手に見せつけるって言ってたの?

そんなこともう覚えていない。

当時、三冠王者であった高山選手は、王者の証である三冠ヘビー級のベルトを持ってノアのシリーズに参戦していました。

6月8日の八王子大会では、まだ戴冠経験のなかった秋山選手にベルトを誇示し、6月14日の博多大会では、第16代、第19代、第25代三冠王者であった小橋さんにベルトを見せ付けるつもりでした。

しかし、小橋さんへのアピールは未遂に終わったようです。

携帯性の優れているわけではない三本のベルトを持ち運びながら、小橋選手に見せ付けるどころか、ベルトを持っていったことさえをも記憶にありません。

事故の衝撃の大きさが伺えます。

非現実的なことをずっと考えていた

人間って切羽詰ったら神頼みするんだよ。

どうやったら、どこにお祈りに行ったら、三沢さんが生き返るのかなって本気で考えた。

言うまでもありませんが、死者が生き返ることは決してありません。

そんなことは、高山選手だって十分承知の上のこと。

それでも、現実を受け止めることを避け、非現実的なことを考えるのは、あまりに現実が非常だったから。

翌日に行なわれた博多大会に出場するために、決して整理がつかない気持ちを無理やり受け止めて試合に臨んだのです。

三沢光晴の帝王学

高山選手にとって三沢選手は全日本プロレスの所属になることを進め、ノアの旗揚げのときは声をかけてくれた恩人です。

また、プロレスに必要なものを、身を持って教えてくれた選手でもあります。

ノー・フィアーを結成し、勢いに乗っていた高山選手の前に、高い壁として立ちはだかったのは三沢選手です。

三沢さんと初めてシングルをやったときも、「食ってやる」っていう気持ちだけだった。

だけど、噛み付いたら、俺の歯のほうが折れる、みたいなね。

三沢選手と闘うことによって、高山選手はプロレスラーとして必要なことを全て叩き込まれたと語ります。

この経験が、後に高山選手がプロレス界の帝王と呼ばれるまでにレスラーとしてステイタスを上げることができた要因なのではないかと思います。

プロレスリング・ノアの高い壁

今も、ノアのリングにフリーとして定期参戦する高山選手は、ノアの選手達の高い壁として立ちはだかっています。

現在、ノアのリングでは鈴木軍の侵略を受けています。

言うまでもなく、高山選手と鈴木選手は盟友といってもいい間柄。

今のところ、高山選手は鈴木軍に対してのスタンスを明確にはしておりませんが、いずれそれが明らかになるときが来るでしょう。

高山選手は、鈴木軍からノアを守る高い壁となるのでしょうか?

それとも、鈴木軍と共にノアを侵略する高い壁となるのでしょうか?

高山選手がいずれの答えを出したとしても、根底にはノアを愛する気持ちを持ち続けているのは間違いないでしょう。

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百田光雄(第7、8回)

百田選手は、故・三沢光晴選手が全日本プロレスに入団してからずっと一緒にやってきた選手です。

事故直後、故・三沢さんと救急車で一緒に病院に向かい、最期を看取ったのも百田選手です。

当日は、混乱する現場を、冷静に指揮し的確な判断をなされたようです。

若い選手・スタッフが多かった中で、百田選手の存在は何よりも大きかったでしょう。

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潮崎豪(第9、10回、11回)

齋藤選手が、故・三沢光晴さんの最後の対戦相手なら、潮崎豪選手は最後に組んだパートナー。

今では、全日本プロレスの三冠ヘビー級王座も戴冠し、立派なメインイベントとして活躍しておりますが、当時はまだまだ若手の域を出ていない選手。

グローバル・タッグリーグ戦で三沢選手のパートナーに抜擢され、上がっていく最中でした。

あの場で見てた者として、あのバックドロップで立てなくなったっていうわけじゃないって言い切れます。
今までのダメージがきたんだなって。

誰よりも一番近くで、最後のバックドロップを見た潮崎選手の言葉です。

翌日の博多大会では、急遽GHCヘビー級のタイトルマッチに抜擢され、そして見事に結果を残した潮崎選手の精神力には頭が下がります。

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浅子覚(第12、13回)

浅子さんは故・三沢光晴さんの初代付き人であり、プロレスラーを引退後はノア専属のトレーナーを務めています。

事故があった広島大会にも帯同しており、試合中は秋山選手の身体を治療していました。

専属トレーナーという立場からか、選手とは違った冷静な判断が文面から感じ取ることができます

今年で七回忌だけど、区切りなんてずっとないんじゃないかな。

怪我をしている選手を無理にでも止める立場だったと悔やみますが、止められたからといって素直に休むようなプロレスラーが多くないのは想像に難くありません。

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落合史生カメラマン(第14、15回)

落合さんは、元フリーのカメラマンで、試合当日はリングサイドで撮影を担当していました。

カメラマンは、誰よりも被写体となる選手の身体を見つめることが多い職業。

素人目で見ても、当時の故・三沢さんの体調が思わしくないのは明らかで、それはやはり、フィルターを通して観察すると、より鮮明なものとして認識できていたようです。

変な話、首より先に足を骨折したとか腰のヘルニアで動けなかったとかだったら、少しでも休めたのに。でも…。

体調が思わしくないのは故・三沢さん本人も認識したようですが、環境がそれを許さずに、試合に出るしかなかった…

怪我をして、物理的に動けなくなるしか、当時の三沢さんが休む方法はなかったのです。

プロレスの写真で良い写真とは何でしょうか?

入場時、試合に勝った瞬間、ベルトを巻いた姿、技が決まったときなどなど。

技が決まったときの写真は、見かたを変えると危ないときの写真でもあります。

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鈴木鼓太郎(第16、17回)

歴代最長期間の付き人を務めたのが鈴木鼓太郎選手です。

当時のツアー中は、付き人を務めていた選手が欠場していたため、鈴木選手が臨時で故・三沢さんの付き人を務めておりました。

当時、ボク的にはあんまり三沢さんにタイトルに絡んでほしくないなっていうのが正直な気持ちでした。
タイトル戦になるとだいぶ無理をすることになるので。

当時の状況を読むと、故・三沢さんの体調に本当に悪かったことが分かります。

それは、事故の起こった瞬間をさすのではなく、体調が悪かったのが当たり前。

変な言い方ですが、悪いのが普通だったのです。

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石森太二(第18、19回)

石森太二選手と、故・三沢光晴さんというと、あまり関係性がピンと来ないように思いますが、実は石森選手は、故・三沢さんがNOAHに入団させた最後の選手です。

そして、故・三沢さんが最後の試合にリングインする時に、ロープを開けたのが石森選手なのです。

石森選手は、故・三沢選手がなくなる直前、ボディビルのコンテストに出場することを決めていたそうです。

(ボディビルの)コンテストではグリーンのタイツをはいて、三沢さんの入場テーマ曲をフリーポーズのときに使わせてもらってエルボーの動きを取り入れました。

石森選手がノアに入団後、故・三沢さんから初めて「太二」と下の前で呼ばれるようになったのは、事故が起こる1ヶ月前のこと。

故・三沢さんと関わった時間は短いかもしれませんが、石森選手にも、方舟の魂は生きているのです。

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大川正也リングアナウンサー(第20回)

大川正也さんは、ノアのリングアナウンサーであり、故・三沢さんの秘書も務めていました。

事故当日、大川さんはいつものように、故・三沢さんの好きな紙パックのリングジュースを買ってきて、テレビ用のインタビューを催促した後は、前半戦のコールを行ない、グッズ売店で待機をしておりました。

試合終了のゴングと同時に巻き起こったテーマ曲と「ミサワ」コールも、故・三沢さんが凄い試合をしたのかなと思って聞いていたそうです。

(撤収作業のとき)ちょうど1本目の鉄骨を運んでいる時に営業担当から「三沢社長が亡くなった」って聞きました。
ボクはその事実を自分で受け入れたくなくて「あっそう」しか返せませんでしたよ。

大川さんは、故・三沢さんと週に2.3回は飲みに行く関係だったようです。

近い、親しい人間ほど、その人の死を受け入れることが難しいということが分かります。

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丸藤正道(第21、22回)

故・三沢光晴さんの後継者といえば、丸藤正道選手を置いて他ならないと思います。

ファイトスタイルは違えど、天才と呼ばれ、若くして責任の重いポジションを任せられるカリスマ性に共通点を感じます。

事故当時、丸藤選手は怪我のため巡業に帯同しておりませんでした。

丸藤選手が事故を知ったのも自宅のインターネット。丸藤選手に状況を知らせることができないほど、現場は混乱していたのです。

オレたちプロレスラーは、言葉以上に表現できる術っていうのがあるからね。
言葉よりも重くて、意味のあるものを見ている人たちに伝えることができる。

現在、ノアのマットはGHCの全ベルトが総流出という苦しい状況に置かれています。

しかし、丸藤選手を始めとするノアの選手達は、故・三沢さんが作ろうとしたNOAH以上に、良いものを作ろうと懸命になっています。

まだまだ、NOAHの向かう先を見つめていきたいと思います。

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「6月13日を忘れない」を読んで

三沢さんなら大丈夫

多くの選手、関係者が口を揃えるのが、「三沢さんなら大丈夫」という言葉。

私も何度となく試合を観戦し、危ないと思うようなときもありましたが、「三沢さんなら大丈夫だろう」というどこか安心感を持って見ていました。

しかし、本当はまったく大丈夫ではありませんでした。

数々の激闘の代償は凄まじく、蓄積されたダメージは、確実に故・三沢さんの身体蝕んでいたのが事実です。

それでも、故・三沢さんは、NOAHを旗揚げしてから休まずにリングに立ち続けました。

NOAHに行けば、三沢光晴の試合を観ることができる。

その期待に懸命に応えようとしていたのです。

怪我と隣り合わせの現実

全ての選手が事故直後、故・三沢さんの死を現実として受けれいれることができなかったと語ります。

それだけ、故・三沢さんがリング上で散るということは想像できなかったことに違いありません。

昨今、プロレスを初観戦した人が、「想像してたよりも、怖くなく、痛くなかった」という感想を述べることを目耳にしますが、やっぱり本質的に、プロレスとは、怖くて、痛いものなのだと思います。

どれだけオブラートに包んで見せたところで、プロレスとは暴力を見せるもの。怪我をしないはずはないし、それ以上のことが起こる危険性を常に抱えているのです。

もちろん、そうならないために、プロレスラーは日々鍛錬し、肉体を鍛えていますが、それでも怪我をゼロにすることはできません。

いつ、どの試合でも、プロレスラーは激しい試合が求められています。時には、ちょっとしたアクシデント…いや、アクシデントなんかなくても怪我をすることは多々あります。

もし、レスラーが怪我をしたのならば、たとえそれがメインイベントだろうと、タイトルマッチだろうと、試合を止める。場合によっては試合を中止するようなどの措置に私は賛成します。

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