プロレス【思い出と喧嘩したって勝てっこねえ】理由を考えてみた

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プロレス【思い出と喧嘩したって勝てっこねえ】理由を考えてみた
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思い出と喧嘩したって勝てっこねえよ。

こう呟いたのは、天才・武藤敬司選手ですが、プロレスをある程度見ていると、誰でも思い出の試合というものがあります。

初めてテレビで観た試合、初めて会場で観た試合、彼女と初めて観に行った試合など……。

このようなシチュエーションで観た試合は、例外なく名勝負として当人の記憶に「思い出」として残ります。

その後、どんな試合を観たとしても、この「思い出」には勝てないのです。

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インターネットがもたらしたもの

最近では、インターネットの発達にともない、昔の試合を簡単に観ることができるようになりました。

これはインターネットがもたらした革命の一つで、昔は、 VHS やベータといった記録媒体に録画し大切に保管する、もしくは保管している友だちを探し当てるなりしないと、永久に観られなくなっていた試合がたくさんありました。

しかし今では、インターネットを立ち上げ、検索窓に観たい試合を打ち込むだけで観られるようになったのです。

一度でも、なんらかの放送に流れた試合なら、インターネットのどこかに保存されており、いつでもどこでも観られる。

いや、放送なんてされていなくても、誰かがスマホのカメラで撮影したものをアップさえしていれば、気軽に観ることができる。僕らは、そんな世界で生きているのです。

思い出の正当化

しかし、こういったインターネットの恩恵は、必ずしも良い面ばかりとは限りません。

思い出の試合を久しぶりに観てみると、それほどの名勝負でもなく、落胆することがあるからです。

そのとき、「実は大した試合ではなかったんだなあ」と思えればまだ良いのですが、「いや、俺の思い出の試合が、こんなもののはずがない!」というように、頑に「思い出」が良いものとしてこだわることも、よくあります。

ときには、「撮影の仕方が悪いんだ」や「もしかすると他の試合なのかもしれない」というように、自分の「思い出」を正当化しようとすることもめずらしくありません。

映像という事実が残っているにもかかわらず……。

思い出と結果したって勝てっこない理由

「思い出」とはおもしろいもので、「思い出」そのものよりも、それをどう思ったのか、どのようにして思い出したのかが、実際の「思い出」を美化することがあります。

自分の記憶に対する肉付けというか味付けというものが、「思い出」を、実際よりも、良い「思い出」として認識するのです。

つまり、まぁ地方で行われた消化試合のようなものが、「初めて」という味付けによって、極上の名勝負へと昇華され、良い「思い出」として記憶に残ることがあるのです。

だから、後から観た試合が、本当に名勝負だったとしても、まず勝つことがありません。これが、思い出と喧嘩したって勝てっこない理由です。

満場一致の名勝負が実現しない理由

もし、この思い出をコントロールできれば、どんな凡戦だって名勝負に昇華できるかもしれません。

しかし、これは同時に、どんな名勝負だって凡戦へと悪化できる可能性も含んでいるので、一概に考えるのはやや危険。

プロレスファンが集まれば、「名勝負とは?」の議論が行われますが、えてして結論がでないのも、仕方がないといえば仕方のないことですね。