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三沢光晴最後の一日「6月13日を忘れない」を偲ぶ

      2015/09/17

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三沢光晴最後の一日「6月13日を忘れない」を綴る:前編

2015年1月14日発売の週刊プロレス1775号から連載が開始されました、~三沢光晴最後の一日~「6月13日を忘れない」。

2015年6月13日(土)に開催される、「三沢光晴メモリアルナイト2015」を直前に迎え、今週号をもってついに最終回となりました。

総勢11名、全22回に及ぶ連載は、故三沢光晴さんと特に関係の深い選手・関係者の思いのたけがひしひしと感じる内容となっています。

改めて、全22回に及ぶ連載を振り返ってみたいと思います。

三沢光晴最後の一日「6月13日を忘れない」

齋藤彰俊(第1、2、3回)

齋藤彰俊選手は、故・三沢光晴さんと最後に肌を合わせた選手です。

アクシデントだったとはいえ、三沢選手の死は齋藤選手にとって決して避けることはできない、重いテーマです。

自分は涙を流す資格なんてないんです。泣いたり、悲しんだりするのはご遺族、関係者、ファンの方たちなんです。

文面から、痛いほどに齋藤選手の心境が伝わってきます。

齋藤選手は、まだ騒動納まらぬ中、翌日に開催された博多大会で撮影会を行ないました。

気持ち的に、行なえる状況にはなかったことが推測できますが、それでも、GHCヘビー級タッグ王座として、撮影会に参加したプロ意識には頭が下がります。

齋藤彰俊選手の個別記事はこちらです。

西永秀一レフェリー(第4、5回)

プロレスの試合でリングに上がるのは選手だけではありません。レフェリーだってその一人。

選手がクローズアップされることが多いですが、西永レフェリーも事故当日、そして翌日もリングに上がり続けました。

そういう時(アクシデントが起こったとき)は、ボク、いつも「動けるか?」って聞くんです。そしたら「ダメだ」って聞こえたんですよ。それで「止めるぞ」と聞いたら、今度は「止めろ」と聞こえたんです。

医師からは「あり得ない」と否定はされましたが、故三沢光晴さんと最後に会話したのは西永レフェリーと言われています。

医学的にはあり得ないかもしれませんが、受け答えが成立したのならば、そこに会話はなされたのだと思います。

高山善廣(第6回)

当時、ノアのリングに三冠ヘビー級王座として上がっていた高山選手は、翌日の博多大会で三冠ヘビーのベルトを小橋さんに見せ付けることを計画しておりました。

言うまでもなく、ノアの主要選手はほとんどが全日本プロレス出身者。かつて三冠ヘビー級を争った選手達に、ノアのリングでベルトを見せ付ける絵が欲しかったのです。

しかし、実現はしませんでした。

事故の騒動で、全てがなくなったのです。

(三沢さんが)亡くなっちゃったと言われながらも、何とかならないかなって非現実的なことをずっと考えていた。

亡くなった人間がなんとかなる(生き返る)ことがないのは当然の摂理。

しかし、そう考えざるを得ないほど、故・三沢光晴さんの死は高山選手の心に重く圧し掛かったのです。

高山善廣選手の個別記事はこちら

百田光雄(第7、8回)

百田選手は、故・三沢光晴選手が全日本プロレスに入団してからずっと一緒にやってきた選手です。

事故直後、故・三沢さんと救急車で一緒に病院に向かい、最期を看取ったのも百田選手です。

当日は、混乱する現場を、冷静に指揮し的確な判断をなされたようです。

若い選手・スタッフが多かった中で、百田選手の存在は何よりも大きかったでしょう。

潮崎豪(第9、10回、11回)

齋藤選手が、故・三沢光晴さんの最後の対戦相手なら、潮崎豪選手は最後に組んだパートナー。

今では、全日本プロレスの三冠ヘビー級王座も戴冠し、立派なメインイベントとして活躍しておりますが、当時はまだまだ若手の域を出ていない選手。

グローバル・タッグリーグ戦で三沢選手のパートナーに抜擢され、上がっていく最中でした。

あの場で見てた者として、あのバックドロップで立てなくなったっていうわけじゃないって言い切れます。
今までのダメージがきたんだなって。

誰よりも一番近くで、最後のバックドロップを見た潮崎選手の言葉です。

翌日の博多大会では、急遽GHCヘビー級のタイトルマッチに抜擢され、そして見事に結果を残した潮崎選手の精神力には頭が下がります。

浅子覚(第12、13回)

浅子さんは故・三沢光晴さんの初代付き人であり、プロレスラーを引退後はノア専属のトレーナーを務めています。

事故があった広島大会にも帯同しており、試合中は秋山選手の身体を治療していました。

専属トレーナーという立場からか、選手とは違った冷静な判断が文面から感じ取ることができます

今年で七回忌だけど、区切りなんてずっとないんじゃないかな。

怪我をしている選手を無理にでも止める立場だったと悔やみますが、止められたからといって素直に休むようなプロレスラーが多くないのは想像に難くありません。

落合史生カメラマン(第14、15回)

落合さんは、元フリーのカメラマンで、試合当日はリングサイドで撮影を担当していました。

カメラマンは、誰よりも被写体となる選手の身体を見つめることが多い職業。

素人目で見ても、当時の故・三沢さんの体調が思わしくないのは明らかで、それはやはり、フィルターを通して観察すると、より鮮明なものとして認識できていたようです。

変な話、首より先に足を骨折したとか腰のヘルニアで動けなかったとかだったら、少しでも休めたのに。でも…。

体調が思わしくないのは故・三沢さん本人も認識したようですが、環境がそれを許さずに、試合に出るしかなかった…

怪我をして、物理的に動けなくなるしか、当時の三沢さんが休む方法はなかったのです。

プロレスの写真で良い写真とは何でしょうか?

入場時、試合に勝った瞬間、ベルトを巻いた姿、技が決まったときなどなど。

技が決まったときの写真は、見かたを変えると危ないときの写真でもあります。

鈴木鼓太郎(第16、17回)

歴代最長期間の付き人を務めたのが鈴木鼓太郎選手です。

当時のツアー中は、付き人を務めていた選手が欠場していたため、鈴木選手が臨時で故・三沢さんの付き人を務めておりました。

当時、ボク的にはあんまり三沢さんにタイトルに絡んでほしくないなっていうのが正直な気持ちでした。
タイトル戦になるとだいぶ無理をすることになるので。

当時の状況を読むと、故・三沢さんの体調に本当に悪かったことが分かります。

それは、事故の起こった瞬間をさすのではなく、体調が悪かったのが当たり前。

変な言い方ですが、悪いのが普通だったのです。

石森太二(第18、19回)

石森太二選手と、故・三沢光晴さんというと、あまり関係性がピンと来ないように思いますが、実は石森選手は、故・三沢さんがNOAHに入団させた最後の選手です。

そして、故・三沢さんが最後の試合にリングインする時に、ロープを開けたのが石森選手なのです。

石森選手は、故・三沢選手がなくなる直前、ボディビルのコンテストに出場することを決めていたそうです。

(ボディビルの)コンテストではグリーンのタイツをはいて、三沢さんの入場テーマ曲をフリーポーズのときに使わせてもらってエルボーの動きを取り入れました。

石森選手がノアに入団後、故・三沢さんから初めて「太二」と下の前で呼ばれるようになったのは、事故が起こる1ヶ月前のこと。

故・三沢さんと関わった時間は短いかもしれませんが、石森選手にも、方舟の魂は生きているのです。

大川正也リングアナウンサー(第20回)

大川正也さんは、ノアのリングアナウンサーであり、故・三沢さんの秘書も務めていました。

事故当日、大川さんはいつものように、故・三沢さんの好きな紙パックのリングジュースを買ってきて、テレビ用のインタビューを催促した後は、前半戦のコールを行ない、グッズ売店で待機をしておりました。

試合終了のゴングと同時に巻き起こったテーマ曲と「ミサワ」コールも、故・三沢さんが凄い試合をしたのかなと思って聞いていたそうです。

(撤収作業のとき)ちょうど1本目の鉄骨を運んでいる時に営業担当から「三沢社長が亡くなった」って聞きました。
ボクはその事実を自分で受け入れたくなくて「あっそう」しか返せませんでしたよ。

大川さんは、故・三沢さんと週に2.3回は飲みに行く関係だったようです。

近い、親しい人間ほど、その人の死を受け入れることが難しいということが分かります。

丸藤正道(第21、22回)

故・三沢光晴さんの後継者といえば、丸藤正道選手を置いて他ならないと思います。

ファイトスタイルは違えど、天才と呼ばれ、若くして責任の重いポジションを任せられるカリスマ性に共通点を感じます。

事故当時、丸藤選手は怪我のため巡業に帯同しておりませんでした。

丸藤選手が事故を知ったのも自宅のインターネット。丸藤選手に状況を知らせることができないほど、現場は混乱していたのです。

オレたちプロレスラーは、言葉以上に表現できる術っていうのがあるからね。
言葉よりも重くて、意味のあるものを見ている人たちに伝えることができる。

現在、ノアのマットはGHCの全ベルトが総流出という苦しい状況に置かれています。

しかし、丸藤選手を始めとするノアの選手達は、故・三沢さんが作ろうとしたNOAH以上に、良いものを作ろうと懸命になっています。

まだまだ、NOAHの向かう先を見つめていきたいと思います。

「6月13日を忘れない」を読んで

三沢さんなら大丈夫

多くの選手、関係者が口を揃えるのが、「三沢さんなら大丈夫」という言葉。

私も何度となく試合を観戦し、危ないと思うようなときもありましたが、「三沢さんなら大丈夫だろう」というどこか安心感を持って見ていました。

しかし、本当はまったく大丈夫ではありませんでした。

数々の激闘の代償は凄まじく、蓄積されたダメージは、確実に故・三沢さんの身体蝕んでいたのが事実です。

それでも、故・三沢さんは、NOAHを旗揚げしてから休まずにリングに立ち続けました。

NOAHに行けば、三沢光晴の試合を観ることができる。

その期待に懸命に応えようとしていたのです。

 

怪我と隣り合わせの現実

全ての選手が事故直後、故・三沢さんの死を現実として受けれいれることができなかったと語ります。

それだけ、故・三沢さんがリング上で散るということは想像できなかったことに違いありません。

昨今、プロレスを初観戦した人が、「想像してたよりも、怖くなく、痛くなかった」という感想を述べることを目耳にしますが、やっぱり本質的に、プロレスとは、怖くて、痛いものなのだと思います。

どれだけオブラートに包んで見せたところで、プロレスとは暴力を見せるもの。怪我をしないはずはないし、それ以上のことが起こる危険性を常に抱えているのです。

もちろん、そうならないために、プロレスラーは日々鍛錬し、肉体を鍛えていますが、それでも怪我をゼロにすることはできません。

いつ、どの試合でも、プロレスラーは激しい試合が求められています。時には、ちょっとしたアクシデント…いや、アクシデントなんかなくても怪我をすることは多々あります。

もし、レスラーが怪我をしたのならば、たとえそれがメインイベントだろうと、タイトルマッチだろうと、試合を止める。場合によっては試合を中止するようなどの措置に私は賛成します。

最後までお読み頂きありがとうございます!

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